SEM対策のエッセンス
膨大なコレクションには、活版本4万余冊、写本3、500冊の蔵書のみならず、フォリオ判に整理された植物標本337冊や8万点に及ぶ動物、鉱物、貝類などの標本類なども含まれていた。
ところが、財政難に直面していた当時の王室が、その買収に難色を示した。
そこで、政府はすでに買収することを決めていたCトン文庫とHーリー文庫などをスローンのコレクションと合併させることにした。
それらを統合してK立図書館を設立する法令が、1753年議会を通過することになった。
D英博物館図書館誕生の大まかな経緯である。
19世紀に入ってからは、国家予算の規模が増大したこともあって、そのコレクションの規模も飛躍的に増大し始める。
先にも述べた「図書館百科事典近代的秩序」というMタフアは、イギリスにも根強く浸透し始めていた。
そんな秩序への欲望が、D英帝国の強大な政治力と経済力を背景として、D英博物館図書館として結実したのである。
さて、世界一の「豊かさ」を自認するD英帝国の中心として君臨するD英原物館図書館は、言うまでもなく、世界最高のコレクションをめざした。
そのため、D英博物館図書館は、これまでにない広大な主題のテーマを持つコレクションを一元的に管理しなければならなくなった。
そのコレクションが質的にも量的にもこれまでにないものであっただけに、そこに導入される知のA・Kテクチヤにも独自なアイディアと技術が必要とされたのである。
「近代図書館の父」と称されるAントニオPニッツィは、歴史上比類のないコレクションが形成されつつあったD英博物館図書館の管理・運営を大きく前進させた人物である。
もちろん、当時のイギリスには、Hブズに始まりRクやSミスあるいはBンサムに至る独自の啓蒙主義が育っていた。
Pニッツィが手を下していった図書館の近代化も、そんな知の潮流に少なからず影響されつつ進められていくのである。
Pニッツィはイタリアからの政治亡命者でありながら、産業革命と啓蒙主義思想が大きく動き出していた19世紀のイギリスで、テクノクラートとして辣腕をふるった数奇な経歴の持ち主である。
まずは、このPニッツィというテクノクラートが登場した背景をたどりながら、19世紀のイギリスが直面していた知の状況を把握しておこう。
Pニッツィは、1797年、北部イタリアに位置していたモデナ公国のプレスチェロという小さな村に生まれた。
そこで幼少期と青年期を過ごしたPニッツィは、パドヴア大学に進んで法律を学ぶ。
エリート官僚としてスタートするはずだったPニッツィであるが、その後の運命は当時のイタリアにおける不安定な政治状況に翻弄されることになる。
1820年ナポリに革命が起こり、その改革の波はまたたく間にイタリア全土に及んだ。
革命運動が各地に波及していくにつれて、各公国政府当局の弾圧も激化し始めた。
Pニッツィはこの革命的な政治運動に関与していたのである。
その運動参加の事実を知ったモデナ公国政府はPニッツィの身柄を拘束しようと画策する。
弾圧の動きを察知したPニッツィは弾圧を逃れてイタリアを脱出した。
国境を越えてスイスに入ったPニッツィであったが、スイス政府を始めとしてハプスプルグ、フランス、サルジニアなど各国政府の圧迫は執拗を極めた。
そんな政治的な圧迫や状況の困難さを回避しつつ、ついにPニッツィとその同志たちは、1823年イギリスへの亡命を果たした。
ロンドンにたどり着いたPニッツィはいったんリバプールの資産家Rスコーの下に身を寄せた後、1826年に新設されたばかりのロンドン大学キングスーカレッジのイタリア語教授として教壇に立つためロンドンへ戻る。
ロンドンに再び居を構えたばかりのPニッツィに早くも大きな転機が訪れた。
1830年にD英博物館図書館(通称「英国図書館」)の閲覧許可を得たのだ。
翌1831年には、特別アシスタント・ライブラリアンの地位を得て図書館運営の一翼を担うまでになっていた。
当時のイギリスは、まさに「世界の工場」と呼ぶにふさわしい活気のある時期であった。
この「世界の工場」の象徴とも言うべきD英博物館図書館において、Pニッツィのキャリアは輝かしいものになっていく。
Pニッツィは自らの才能を開花させることのできる新天地を得たのである。
鉄骨円形大閲覧室Pニッツィが構想した鉄骨円形大閲覧室(第1部扉図)は、現在でも図書館建築にとっては記念碑的存在となっている。
この建築計画は1852年に議会を通過し、約5年の歳月をかけた工事の末、1857年5月完成した。
Pニッツィの独創的なアイディアが数多く投入されている円形大閲覧室の建築計画の中でも、まずGーテおかなければならないのは、建築資材として鉄骨を用いたことである。
「歴史の宝庫」を自認する英国図書館にとって、火事は大敵である。
図書館経営に参画し始めて以来、歴史的な文献の収集を精力的に展開していたPニッツィにとっても、火に対する危機管理は大きな課題だったのだ。
なぜ、この危機管理が大きな問題だったのか。
戦火をくぐり抜けてきたPニッツィにとって、火は戦争を意味する。
数多くの貴重な資料を所蔵する図書館は、戦火から逃れることができるような堅牢な要塞であることが必要である。
Pニッツィが鉄骨を採用した最も大きな理由だろう。
もちろん、Pニッツィの関心は、堅牢なハードウェア(図書館建築)にとどまらず、コレクションの公開というソフトウェアにも注がれていた。
歴史的に価値のある資料は、世界各国で収集された芸術作品や工芸品と同様に、貴族的なサロンで飾られる調度品であり骨董品であった。
D英博物館図書館のコレクションが個人のコレクションに大きく依存してきたことを考えても、コレクションの公開という考え方はそれほど一般的ではなかったはずである。
ながら、「歴史の宝庫」を単なる「御物」として保管するだけではなく、国家が公開し継承していくことを、Pニッツィは近代図書館の重要な役割と考えたのである。
すなわち、「知の公開」を強力に推進しようとしたのである。
このPニッツィによる「知の公開」は現在の「情報サービス」の先鞭を付けていることは言うまでもない。
当時の保守的な風潮からして、「知の公開」が破天荒で非常識なアイディアだと一笑に付されても不思議ではない。
国家財政で収集した高価な資料を利用者(利用資格審査は依然として残っていた)に公開するというPニッツィのアイディアに対しては、当然ながら猛烈な反発があったはずである。
そのような反発を鎮める意味もあって、火に対する危機管理を周到にした建築計画にも心血を注いだのである。
戦火を切り抜けてきたPニッツィの説得は、計画を大きく推進する力となった。
Pニッツィにとっては、大きな時間的かつ経済的コストをかけても、危機管理と情報サービスを建築計画で両立させることが必要だったのである。
亡命者AントニオPニッツィがロンドンに演出した知のA・Kテクチヤは、周知のようにMルクスやクロポトキンなどその後次々に輩出される近代運動の巨人たちに書物の森と思索の場を提供することになった。
彼らは書物の森から聞こえてくる創造の音に耳を傾けながら、自らの想像力の行使と新しい時代の到来を期していたに違いない。
Pニッツィは、いわば近代運動を駆動するエンジンを設計したのである。
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